スペシャル1 開創620年・遷座343周年

大藏山光明寺開創620年・遷座343周年

由来・沿革

古代は蝦夷の地

延暦8年(789)大和朝廷はこの東北の蝦夷の地を従えるために紀古佐美(きのこさみ)は五万三千の兵をもって胆沢攻略。
阿弖流為(アテルイ)の逆襲によって退けられた。
同じく11年に十万、20年に四万の大軍を統いて征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は阿弖流為、母禮(モレ)らを破り胆沢城をもって蝦夷経営の基地とした。
10世紀になり安倍一族が奥六群(胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波・岩手)の俘囚長(ふしょうちょう)となり、藤原経清(ふじわらのつねきよ)らと共に豊田館(とよだのたち)ー奥州市・江刺区ーを中心に源頼義(みなもとのよりよし)らと衣川(ころもがわ)の合戦後、前九年の役をもって破れた。
経清の子、清衡(きよひら)は秋田で成長し、父の遺館豊田館を居城とし、やがて100年にわたる平泉丈化を築いた。
源頼朝の藤原文化追討に際し第一陣の殊勲の葛西清重(きよしげ)はその功により江刺郡・胆沢郡・磐井郡など5郡2保を治めた。
葛西七代詮重(あきしげ)は正法寺(しょうぼうじ)ー奥州市・水沢区黒石、貞和4年=1348、無底良詔(むていりょうじょう)禅師開山、總持寺大本山、曹洞宗の第3の本寺・伊達藩)の第二世、月泉良(了)印の法弟平清泰(たいらのきよやす)をもって江刺氏の租とした(角川 日本地名辞典岩手版より)。
光明寺は徹叟弘通(てっそうこうつう)大和尚によって応永3年(1396)、平清泰を大檀那とし、師の正法寺第二世月泉良印大和尚を勧請して開山とし田谷村ー奥州市江刺区愛宕田谷ーに定められた。

江刺氏の位牌寺(菩提寺)

延命地蔵菩薩(地蔵尊)
光明寺には、創立当時の本尊と伝えられる木像の古仏「延命地蔵菩薩(地蔵尊)」が本堂に安置されている。
胎内銘によれば応永9年(1402)10月、第二世徹叟弘通大和尚のとき「江刺宗家二代目平満家(たいらのみついえ)が大檀那となり、本尊の蓮華座を造立す」とある。
これは江刺氏の祖である平清泰の菩提を弔うため、江刺氏二代目満家によって行われたことを意味している。
さらに同銘文によると、応永18年(1411)6月、第三世芳山宗梅大和尚と江刺氏三代目の当主宗繁(清泰の孫)のときに、仏殿ないしは内陣などの大修理などが行われたことが推察できる。
このように当寺は江刺氏の開基寺として、手厚い庇護のもとに大過なく、数代、100年を経、明応年間に至った。
明応4年(1495)平清泰系の江刺隆見が葛西宗家十三代政信に攻められた。敗退した隆見は浅井の倉迫館に逃れた。
この岩谷堂の地には葛西政信の従孫(兄・尚信の孫)にあたる葛西重任(しげとう)が派遣され、江刺氏を継承している。葛西重任を祖先とする(新)江刺氏も、平清泰系の江刺氏と同じように、菩提寺を光明寺としている。
このことは永禄2年(1559)6月1日、再興三世禅派大和尚の代、重任系新江刺氏四代目の平重恒(江刺兵庫頭)が大檀那となり、本尊の再興を行っていることでも明らかである。銘文に仏師の名前があることから、再輿は古損した本尊の修理だったと思われる(平凡社「岩手県の地名」より)。
正法寺を本寺としていた応永3年(1396)から、再興された享禄4年(1531)までの歴住は次の通りであり、五世明国智光大和尚以後は判然としていない。ただし、再輿二世月頭大和尚は法幢寺の五世であり、当寺一世の月泉良印大和尚の孫弟子にあたる。

一代 月泉良印
二代 徹叟弘通
三代 芳山宗梅
四代 田叟英梅
五代 明国智光(「奥の正法寺」より抜粋)

松音寺三世皇山大和尚によって再興

当寺過去帳によれば、再輿は享禄4年(1531)の直前であったと思われる。
当寺は伊達藩伊具郡丸森にあった松音寺(仙台市蓮坊小路)の末寺になったと記されている。
江刺氏最後の城主、兵庫頭江刺重恒は光明寺の再輿にあたり、奥州で最も勢力があった伊達氏を頼ったのだろう。
なお、天文6年(1537)に伊達十四代植宗の子(後の葛西十五代晴胤)が葛西に養子入りし、天文13年(1544)には葛西、大崎、伊達が和睦している。
同様に大崎氏にも植宗の子義宜が養子入りしている。
再輿の際、仙台市の松音寺三世の皇山宗詮大和尚を招請し、「法開山(再興開山)」としている。
それ以来、当寺の本寺は松音寺とし、歴代住職は、皇山宗詮大和尚より数えられている。
皇山大和尚は、正法寺と同じ能登国総持寺の宗風を継ぐ僧と伝えられる(示寂享禄4年=1531=10・21)。
松音寺は伊達家とゆかりのある名刹として知られている。
伊達藩十二代藩主の成宗公の菩提寺であり、今日の松音寺の山門は伊達政宗の居城だった若林城の城門を拝領したものという。
江戸時代には仙台藩に四大曹洞宗の寺として庇護され、輪王寺、泰心院、昌伝庵と共に寺禄をもらっている。
松音寺三世皇山大和尚によって再興

岩城氏が岩谷堂向山に移転復興

岩城氏
天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原攻めに参戦しなかった奥州武将に対し、大軍を派遣した。
いわゆる奥州仕置である。
江刺重恒もまた、奥州仕置によって領地を没収されたうえ、岩谷堂城を追放された。
重恒は家臣の小田代肥前、大田代伊予守、栗生沢内記と共に和賀郡田瀬に亡命している。
いくつかの寺は重恒に追従していったが、光明寺再興開山第一世住職の皇山宗詮大和尚によって、既に地歩を築いていた光明寺は盲従することなく田谷村に留まり、法燈を守っている。
奥州仕置により葛西、江刺氏が没落したあと、江刺郡は天正19年(1591)より伊達十七代政宗の所領となり、重なる城代の変転・一揆を経て桑折摂津(こうりせっつ)政長が岩谷堂城の新城主となった。
この頃の光明寺は依然として田谷村にあり、江刺氏の菩提を弔うと共に住民の信仰の支えとなっていた。

万治2年(1659)伊達政宗の孫である岩城宗規(いわきむねのり)が岩谷堂要害に転封された。
岩城宗規は岩城家三代・伊達左兵衛宗規といい、忠宗谷の三男といわれる。
岩城宗規は寛文年中(1661〜1672)に光明寺に帰依し、本堂と境内の敷地用に土地二町歩(約2ヘクタール)を寄附した。草高は820文(約8石、およそ8人分の食料)と記録されている。
これに伴い光明寺を田谷村から岩谷堂向山の現在地に移転し、岩城氏の菩提寺とした。移転は堂塔の解体、移築によるもので、旧地の田谷村には何も残らなかった。

発展に尽くした全芸大和尚

中興州山全芸大和尚は当寺七世にあたり、住職を20数カ年務め、元禄11年(1698)3月3日に示寂した。
この間、全芸大和尚は本堂や庫裡の建立にあたるなど当寺の発展に貢献した。
元禄4年(1691)秋には、冶工(鋳造職人)の早川五郎次が鋳造した梵鐘が完成している。
残念ながら、この由緒ある梵鐘は太平洋戦争中の金属回収に応じて供出したために残っていない。

江刺郡下の筆頭寺院に

寛政元年(1789)4月18日、岩谷堂町家から発生した火災は約170軒を焼く大火となり、光明寺も類焼の憂き目をみた。
本尊と過去帳などはかろうじて待ち出したが、什物のほとんどを焼失したために、中世および近世初期などの什物は今日に伝えられていない。
その後、十五世住職・宗温大和尚の代(文化4年没・1807)になり、岩城氏の庇護と檀家信徒の協力によって、本堂、庫裡などの再建が行われた。
宗温大和尚は「中興」として崇められ、光明寺は江刺郡下における筆頭寺院として栄えた。

明治初めには校舎として使用

明治33年
明治時代になると光明寺は大檀越の岩城家の庇護を失い、住民檀信徒の寺として新しい歴史を歩みだした。
国制による江刺郡下における廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)、神仏分離令は比較的穏便に行われ、仏像仏具は破却を避け、移動保存により信仰の混乱は防止され、住民の動揺はほとんどみられなかった。
そして新政府により信仰の自由が認められ新しい宗派やキリスト教などの教会も建てられ始めた。
人心一新を心がけて二十世鳳伝大和尚は檀信徒総代などの連名により、当時の水沢県参事(増田繁幸)に、病弱を理由に法灯の継承を願い出た。
願いは聞き入れられ、仙台林香院長老智玄和尚の来山を請い、二十一世住職に就いた。
明治6年1月、当寺は片岡村小学校の開校にあたり、校舎として借り上げられた。
連日、400人から500人もの児童が庫裡まであふれる状態が10ヵ月にも及んだ。
その結果本堂や庫裡の荒廃は甚だしく、檀信徒の浄財によって改修工事が行われたが、元の状態に戻ったのは同10年になってからだった。
明治末期には、二十七世住職元恵大和尚代に本堂に唐破風造りの向拝が新設され、この頃に本堂の屋根替えも行われている。
萱(茅)屋根の工事としては、これが最後にあたる。
この葺替工事から10数年後の早春、雪崩によって本堂の屋根のほとんどがずり落ちる大災害を被った。
この災害を契機に昭和14年萱葺からトタン葺に改め、屋根地の木組まで改造する大工事を行った。
さらに本堂背面全部の増改築により位牌段を設けるなどの工事を実施し、面目を一新している。

昭和の荒波を乗り越え今日へ

梵鐘
太平洋戦争中の昭和19年(1944)、金属回収の政策に応じ、時鐘として永く住民に親しま
れてきた梵鐘をはじめ古杉数十本などを供出させられた。
戦後は農地改革によって寺所有の耕地を大方とりあげられたことから、寺の資産に大きな打撃を受けた。
昭和27年、宗教法人法の制定に伴い、当寺は同年11月1日、県知事によって認証され、法人組織となった。
昭和29年には、新しい梵鐘が完成し、納められた。
昭和31年には庫裡の屋根を改修し、49年には表参道の改良工事を行った。
昭和57年、本堂の屋根改修工事のほか、庫裡、土蔵、付属建物などの補修工事も併せて施工された。
当寺としては、過去最大規模の工事であり、格地寺院に相応する寺容が整えられた。
名実共に地域の信仰の拠点として平成の時代の平安を祈っている。

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